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人は、自分が眠りに落ちた瞬間というものを記憶していません。同様に、死の瞬間というの
も、じつは、かなりあいまいなものです。
いちおう生命現象の低下が不可回帰点を越えた瞬間、というようなことになっているようです
が、一次元量としてリニアなものでもないでしょうし、その「瞬間」を外から厳密に言えるわけで もないようです。
実際、どの瞬間を越えると回帰不可能(手の施しようがない)か、ということは、医療技術の
発達につれて、考え方が変わることもあるでしょう。
千年前なら完全に死んだと見なされた者が、現代の医療技術をもってすればまだ蘇生可能
かもしれません。千年前の常識に照らすと「死」を体験したことになるその当人にどうだったか 聞くと、たいてい、れいの壮麗なNDE(臨死体験)の話になるわけです。
そして、現代の医学に照らして完全な脳死と判定されるような者も、千年後には、どう見られ
ているか分かりません。
NDEもまた、浅い死での過渡的な体験であり、その記憶は、まだ身体レベルでの脳内麻薬
の影響を受けている可能性があります。
また、たとえ死の入り口が壮麗だからといって、過渡期を越えた「深い死」がどうかは、まった
く分からないというべきです。
たしかに、みなさんは、人の生命現象の低下が不可回帰点を越えた瞬間、ないし、その近傍
を外からごらんになったのかもしれません(例えば心停止の瞬間)。
けれども、みなさんが、その瞬間に、相手について、また死を見とる者について、いだかれた
感想だけにこだわることも難しいのです。
なぜというに、その瞬間の「あと」も、その生命は、浅い死から、より深い死へと移行中であっ
て、まだ過渡現象は続いているからです。
心停止のあと、より深い死へと向かいながらの主観というのは、あるいは、安らぎに満ちたも
のかもしれません。たとえ表情筋のコントロールが、いわゆる苦痛の表情の状態で停止してい ても(本当に死んでしまえば表情筋を動かせませんから、本当に死んだときの感覚は外からは 見えないわけです)。
また、いわゆる安らかな死に顔であったとしても、その者の深い死が安らかかどうかは、未定
義です。死は、まだ始まったばかりなのですから。
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