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教師(しつように扉を叩く)「自分の部屋にばかり閉じこもってないで、みんなと元気に遊びなさ
い」
扉の内側からの声「放っておいてください。研究で忙しいのです」
教師「勉強だけできれば、いいってもんでは、ありませんよ、アインシュタインさん!」(扉をノッ
クしつづける)
明るく社交的なのは良いこと、その反対は悪いこと、というゆがんだ社会通念がいまだに一
部に残存している。
人は、元気なふりをするのに、うんざりし、ほとほと疲れている。
元気なふりがどうしても必要なら、人と人とのやりとりは電子メールにゆだね、メーラに「元気
な顔文字自動挿入」機能でもつけたらどうか。
当たり前のことだが、人の意識というものは、つねに外界に向かっているわけでは、ない。
外部の物理的世界と積極的にかかわることで自分から目をそらしたいこともあるだろうが、
外部とのやりとりを遮断(しゃだん)して、内面に目を向けたいこともある。
内面的な豊かさ――つまり自分と異なる独自の感性――を持っているからこそ、その相手と
つきあうことは、おもしろいのだろう。言い換えれば、そのひとだけの、ユニークな内面世界… …。
それこそがすべての出発点、基点であり、また終点でもあるのに、過渡期の人々は豊かな内
的宇宙というものを積極的に評価せず、むしろ否定的な意味で「自分の殻に閉じこもる」などと 非難した。
しかし、「自分の世界」が豊かであればあるほど、社会的な価値も高まりうる。創造的な仕事
は「自分の殻」の内部でこそ成熟するからだ。
ニュートンであれシベリウスであれ、我々が一般的に高く評価している仕事というのは、まず
その作者の徹底的なひきこもり、内省、沈思黙考から出発している。
そしてその仕事を深く味わうのも、個人の魂においてだ。
意識の流れは複雑で、簡単に理解できるものでは、ない。そもそも、つねに言語化されてい
るわけですらない。
それなのに「あいつは何を考えているか分からない」と責め、自分自身は「考えていること」の
すべてを明快に表現していると信じているのは、おろかしい。
いったい、生物にとって自然なこと、当たり前のこと、例えば排泄や性や本能を、あたかも
「悪いこと、汚いこと」であるかのように扱い、子どもたちにすりこんできた時代は、当然なが ら、社会全体のストレスが大きかったであろう――社会的な約束事である「美しい行儀」とのギ ャップの大きさゆえに、さまざまな問題が生じ、そのギャップに巣くう産業さえ生まれた。
物理的生物の外形をとる以上、その生物の仕様があって当たり前なのに、それを「あるべき
でないもの」「人前で話しては、いけないもの」と教えこむ古代人の宗教は、「人間の美を人間 でないところに求める」という根本的な自己矛盾をはらんでいた。
あるのが自然なものをあるべきでないとみなすゆがんだ社会では、必然的にほの暗い矛盾
が生じる。
無邪気な人間なら、その矛盾に直面して、自己嫌悪におちいるかもしれない。そのうえさらに
「良い子は明るい元気な子」とは、しらじらしいにも、ほどがある。
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