オトコでもオンナでもない


 つうわけで、Bangladesh's third sex (BBC NEWS, Saturday, 25 November, 2000) なんです
が、インドあたりでこういうコミュニティがあるのは、まぁよく出る話として……。
 人間社会における妖精の位置、They may be outcasts and seen as bad luck, but
hijras have always had a role in south Asia, offering blessings or sometimes
curses. つねにこの二面があるわけです。
 くだいていえば、人間の実存、認識の枠組みでとらえられないことによる畏怖(いふ)、そこか
ら一方では憧れ、他方では嫌悪が出たりします。
 もっと身近な同性愛者や、同性結婚や、性転換者、あるいは、さらに身近なクロスドレッサー
であってさえ、ジェンダーという縞模様にそってしか世界が見えないような世代にとっては、実
存的な不安をひきおこし、その右脳的もやもや?を言語表現すると、例えば同性愛は「倫理的
に」悪いことだとか、クロスドレスは間違っている(何が?)といったロジックをなんとか組み立て
ようと必死になる(自分でできなければ神の摂理とやらを持ち出して)、これは、ジェンダー・マ
イノリティを「差別」しているというより、もっと根本的に、それを視る者のほうも不安に揺れてい
る、つまり「差別」するほうもいやされなければならない、もっと言ってしまえば、「差別」するほう
も、幼少期に同じ問題でトラウメティックな思いをしている、傷ついている、ってことです。

 これは本質的な問題じゃなくて、現時点での人間のある種の認識の枠組みのほうの問題な
んです。
 なぜって、木のうえでのんきに歌ってる鳥さんからみたら、オンナがヒゲをはやそうが、オトコ
が「フェミニンな」服を着てようが、そんなのぜんぜん気にもとまらないでしょう? そのことで不
安になるのは人間さんの認識の枠組みの問題なんです。
 その枠組みがない3、4歳の子は、わたしたち(mion)とだって、簡単に友だちになれる……
もちろんその子たちも大きくなってから、「mionってなんだったんだろう」ってふしぎに思うかもし
れないし(覚えていればね)、15歳になるころには、認識の枠組みにあてはまらないものは「見
えない、見なかった」ことになってしまうかもしれない、mionと遊んだことを忘れてしまうでしょ
う、でも、そんなのは、妖精の本質的な特性であって、妖精というのは、そういうものなんです。
 人間のなかにあっては、すぐ見えなくなり、妖精のなかにあっては初めから見えないのです。

 もっともこの枠組みってのも、変わりつつある。最近の物質文明の爛熟(らんじゅく)によっ
て、物理的な操作の必要が減って、物理的に存在するものと、そうでないものとの価値的区別
もあいまいになってきました。
 従来、宗教家の多くは、「清貧」とスピリチュアリズムを関連づけました。またそれは一部の
人々にあっては実現可能でした。が、一般の多くの人々を問題にする場合、逆に、物質的な充
実というインフラストラクチャ(下位構造)を基盤に、そのうえに、「肉体を意識しないストリーム
だけの存在」が自然と出てくるような気がしています。――実際、「物質的繁栄」を良いとか悪
いとかそんなの幻影だとか考えること自体、まだ物質に執着している、「清貧、清貧」とこだわ
ること自体、物質レベルで物事をとられている。
 人間としては、形から「修道生活」を始めるのは(とくに集団宗教では教程化のつごうもあっ
て)インストラクションの上で非常にべんりなんですが、それらは、あくまで、スピリチュアルとい
うゴールにいたるための手段なわけで、結果が同じなら道は、ある意味、なんだっていいわけ
です。
 つまり、その形式的戒律だけが、唯一の道じゃないんです。もちろん「禁欲生活」のようなも
のがダメという意味じゃありません。それがいいと思えばやってみればいいでしょう。

 物質的基盤を無視したスピリチュアリズムが一般には成功しないのは、いろいろな例(例え
ばソ連型コミュニズムの失敗)をひいて説明することもできますが、もっと素朴に、人間の意識
は少なくとも現段階においては肉体という物理的インフラを基盤にしているのだから、そこは無
視できないでしょう。
 古来、精神主義者は、肉体とのおりあいの問題であれこれ考えました……その敬虔さは、あ
などれませんが、この問題は本質(スピリチュアリズムそのもの)というより実用レベル(スピリ
チュアリズムの実装)の問題でしょう。
 とくに、いわゆる動物的なことについて「スピリチュアルな意味で悪い」という価値実装を行う
と、必ず破綻します。スピリチュアリズムは、物理的問題についてまで価値判断すべきでない
のです。
 問題になるとしたら、物理世界でなにかを行うときに、その背後にある意識の状態であって、
現実の行動そのものを問題にすべきじゃないんです。

 サロウの「森の生活」がまず「経済」から始まって、だんだん「より高い法則」へと進むのは、
好感が持てます。これこそが地に足のついたスピリチュアリズムでしょう。

 以上は、まぁいちおー「思想」っぽい(微苦笑)ので、「異なる思想」の持ち主は、あれこれ反
論したくなるでしょう。しかしまぁ……。

 で、話を戻して、BBCの通信員ですが、妖精は、人間社会において、時には特権階級、時に
は被差別階級であるというソーシャルロールを分析したあとで、しかし、They themselves
are cursed with the ultimate curse: to be on the fringes of humanity itself -
neither men nor women. であると書いています。このへんが、人間のイントリンシックな視
点でしょう。本音がにじみでてる部分です。
 「humanity」という言葉で「我々が通常、慣れ親しんだ、よく分かっているところの人間らし
さ」を意味しているのは、意識が安心できる範囲の世界だけを見ていたい、それを「良い」「人
間らしい」と規定したい……ということでしょう。
 要するに、すべての対象は「まる」と「しかく」に分けられる……それが健全で正常な世界のあ
り方だ……と長年、教育されてきたところに、「さんかく」などが現れると、動揺するわけです。
 自分は「まる」ないし「しかく」であると教えこまれ、「まる」らしく「しかく」らしく、あらねばならな
いという意識的・無意識的強制を、もし仮に少しうっとうしく思っているとすると、「さんかく」は自
由の象徴で、憧れの対象かもしれません。
 逆に、そういうしくみが、もう当たり前のものとして、自分の直感と不可分なほどにすりこまれ
ている場合には、「さんかく」は、ありえべからざる邪悪な対象でしょう。「stigma」の価値的二
面性です。


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