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ピカソというと、世間的には天才芸術家というイメージのかたわら、「あまりにデフォルメされ
て、わけの分からない絵」といったイメージもあるかもしれない。
でも、この絵を見てほしい。
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これはピカソの版画(エッチング)「ミノタウロマキア」の一部だ。画面右側から、からだは人間
だが頭は牛の怪物「ミノタウロス」が迫ってくる。
左側のちいさな子どもは、この怪物にたちむかう「闘牛士」だ。左手にかかげたちいさなロウ
ソク――ちいさな光だけれど、怪物は、この光に恐れをなして、ひるんでいるように見える。
象徴的な、そして印象的な絵だ。
子どもの無邪気さは、しばしば残酷でさえある。でもその純真(じゅんしん)さは、窮極的に
は、世の邪悪なちからより強い。
少女が持っているろうそくは、ちいさいながらも、すべての闇を照らし出し、魔物を恐れさせる
「無垢(むく)」の象徴だ。
しかし、この絵を、通俗ファンタジーのように、単純に「光と闇の戦い」とだけとらえるのも、あ
さはかだろう。
闘牛の牛は、結局のところ、もてあそばれる存在、「闘牛士」である少女にとっての「いけに
え」だ。子どもは、その「いたいけさ」を武器に、怪物たちを手玉にとっている。
大きい図版でみると分かりやすいが、この絵は、たしかに「無邪気さ、純真さは、あらゆる怪
物の脅威をしのぐ」という主題を持っている。
上から心配そうに見ているだけでなにもできない大人たち、はしごをのぼって逃げてゆく人物
と対照的に、少女は、右手の花束と左手のともしびとで、怪物に真っ正面から立ち向かってい る――怪物たちは、この無垢の光におそれおののいているかのようで、少女に指一本触れら れないでいる。
けれど、うがった見方をすると、べつの意味で、「怪物と戦わなければならないのは、子ども
たちなのだ」、ともいえる。
セックスアピールの魔物のように、乳房(ちぶさ)が飛び出た馬。暴走する感情の怪物。奇怪
な馬に象徴される、妄想めいた空想。――おとなのもとには、これほどまでに「原初的」な怪物 は訪れないかもしれない。
怪物たちは、まさに子ども自身のもので、無垢の光とあらゆる怪物がせめぎあっているの
は、子ども自身の心象風景である……という見方もできる。
ともしびと花を手にした少女は「無垢」の象徴だ。無垢のちからは、おとなの社会の怪物たち
より強いのだ――というふうにも解釈できるし、また他方において、「とつぜん現れ暴走する怪 物(肉体の象徴)」と子どもの純粋なこころ――子ども時代にこころを満たしていた光――との あいだの「物語」ともとれる。
いずれにせよ、子どもたちは「闘牛士」であり、その純真のちからによって、怪物――それが
自分の内面に住むものであれ外の世界の不正や矛盾の象徴であれ――と、戦っているのだ。
「ミノタウロマキア」が見られるサイト
妖精現実内の関連ページ:東京の18歳未満のみなさんへ
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