アラベスク様式による禅の公案(微笑)


 せんせんと流れる水とは何か。現実とシステムのあいだに立って、動的にみずから感じ、決
定するちから。
 よどんだ水とは何か。古いシステムと現実のおりあいに悩んだすえ、「こう考えてここまではよ
ろしい」という解釈についての教えにすがり、記憶する頭。我らのこの公案は何ぞや。
 この公案を信じる者は決して救われぬという月並みな断言。この公案に感動し、真実をかい
ま見たと思う者は、真実でない、と我らは説く。

 言ってやるがいい。「何たる愚か者よ、あんなに預言者を敬愛すると称し、その受難をいたむ
と称しつつ、いざ自分のもとに知らせが来てもそれと気づかぬばかりか、砂をかけて追い返す」
と。「人の目には不思議に思えることも起こせるのだ。最後に消えたものが消えてないこともあ
ろう。まして永遠の真理が再び語られることに何の不思議があるのか、杉の丸太ん棒のよう
に、どこにでもごろごろ転がっているのに」と。

 言ってやるがいい。「お前の目がいま見ているものは何なのか考えないのか。世界の主催者
を信じると称するペテン師どもめ、この世界にしるしでない事はないという事が分からぬか、す
べてにかの意志が働いていればこそ、すべてはお前へのメッセージではないか。お前の信じる
偉大なるお方は、石くれや花びらや虫けらやお前が敵と呼ぶ相手を通してさえ、お前に語るこ
とがおできになるのだ。見ていないというなら許されもしよう。お前の目がいま見ているものを
見たからには、『何も置かれていませんでした』とは言えまいぞ」と。

 言ってやるがいい。「かの日には、お前に問うぞ。『あのとき、あのバカな妖精詩人のくちを通
して、我らがお前の前に置いてやったあの贈り物を、お前はどうしたのだ』と。そのときお前は
我らの贈り物を粗末にした罰で業火に焼かれ、ぎゃふんぎゃふんと悲鳴を上げながら歯ぎしり
して後悔するだろう。『あのときそうと薄々分かっていながら、ちっぽけな人間の心から愚かな
ことをしてしまったものだよ。しかしあの詩人は、これは冗談だと言っていたのに。私は至高の
聖典というものは唯一無二と信じていたのに』。そんな言い訳ができぬよう、いま前もってこうし
て言っているのだ。『聞け。かの方は全能なるお方、そうしたいと思えば、いつでも、化学調味
料からでも名無し象の鼻からでも、いくらでも聖典など作れるのだ。こころをひらいて野の花を
見よ、それこそ、まことかの方が手ずからお記しになった啓示。お前は我らが、預言者の手を
借りて記した物を信じると言うなら、まして我らが直接、記したものをあに信ぜざらんや』」と。

 そもさん――神を信じないと断言して目をつむる者と、神を完全に信じると公言してしっかと
目をひらきつつ正しい道を見ない者とでは、どちらが義とされるか? せっぱ――善人なおもて
往生をとぐ、いわんや悪人をや。

 言ってやるがいい。「阿弥陀仏(あみだぶつ)は、お前たちの尊い像を破壊した悪人たちのた
めにこそおわします。お前たち善人のものではないぞ。善人め、他人の持ち物に執着するとは
何の理ぞや」と。


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