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「不意に新井昭乃(あらい・あきの)さん作詞の歌「妖精の死」のなかのワンフレーズ「…さん
ざしの木の影から その瞳を見つめて笑う…」というものが頭に浮かび、それが自動的に画像 化されていったことから生まれた1枚です。」と作者は説明している。
その歌のことは知らなかったけれど、「妖精の死」という少しセンチメンタルでショッキングなタ
イトルに、ある手ごたえを感じた。
ネット上を探したら、「新居昭乃オフィシャルホームページ ビリジアンハウス」で、曲の冒頭4
5秒ほどを試聴できるようになっていた。歌詞はちょっと聞き取りにくいけれど、「春……ひそか に近づく足音はだれ?」といったキーワードから、たぶん、「成長もの」なのだろうと思った―― 「妖精の死」とは、子ども(エルフ)であった「何も知らなかった無邪気なわたし」が、女である自 分の現実にとつぜん直面する「死」の物語なのかもしれない。吉原幸子の「桃」にえがかれてい るように――
けれど、それは本当の死では、ない、と、わたしは思う。そのときから、妖精にふたたび出会
うための、本当の旅が始まるのだ。と。
それは死ではなく、始まりなのだ。ひとつの終わりであると同時に、ひとつの始まり、本当の
始まりなのだ。と。
無垢の光のなかで無垢であることは、たしかに純真だろう。けれど、泥のなかの蓮のように
立つことは、いっそう清らかだ――現実にいながら夢みる者が、夢のなかで夢みる者より、い っそうイマジネイティブであるように。
なんであれ妖精の国へささげる「祭祀(さいし)」――自分の行動――の残り物(結果)を、た
いらなこころで、いただくこと、甘くても苦くても、祭祀の残り物を食べて、それで満足して、楽し く生きるということ、「うた」――自分の創造――を通じて、遠い世界に触れるということ、星と地 上をむすびつけるということ。
決して「泥(闇や不正)と戦えるちからをもった透明さ」という意味では、ない。そうではなく「泥
のように、それほどまでに、透きとおっている」という意味だ。「泥」とは、最も透明な世界の象 徴だ。 ![]()
軽いものが軽いのには、なんのふしぎもない。自分の存在の重みを感じながら、なお軽やか
に歩むことができる意識こそ、本当の妖精の誕生なのだ。 ![]()
「満開のさんざしの花枝に腕をかけて、森の濃い大気の中で咲く無数の白い花の間からそっ
とこちらを見つめる妖精乙女―というイメージですね。」とリーデさんは説明してくれた。
もの言いたげな、深いまなざし。秘密めいた、ほんの少しいたずらっぽい、あわいほほえみ。
これは「さよなら」と言って去ってゆく妖精なのだろうか。それとも、これから出会う妖精なのだ ろうか――。
本当のことを教えよう。妖精は死なない。でも「妖精の死」は、ある。少女が妖精を捨てたと
き、少女のなかで妖精は失われる。
けれど、妖精の国は永遠だ――おとなたちが、思いもかけず妖精と邂逅(かいこう)したと
き、驚くというより、むしろなつかしさがこみあげてくるのも、そのためだ。
妖精は、少女のなかで起きた自分の死のいたみを知っている。その悲しみを感じている。そ
して、たえている。
……妖精を失ったことを悲しまないで。見えなくなっただけで、わたしたちは、きっとまた会え
るから。わたしは、いつも花のかげにいるから。あなたが、あなた自身であるわたしを、見つけ てくれる日を待っているから……
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