ネットと現実の境界面


 仮定の話をしてみましょう。これは、現時点においては、ひとつの仮定であり仮想ですが、も
しかすると、ある時代、ある社会においては、当たり前の現実なのかもしれません。

 さて、ネットの世界を、それ自体で独立した、自己完結的なものとみなすとき、その理念は
「共有」でしょう。
 ネット上のあらゆるもの――情報(学術、趣味、娯楽などの)、ソフト、電子化されている芸術
作品などを、だれもが等しく利用できる、ということは、単純に考えれば、たしかにひとつの理
想に見えます。
 ここで「共有する」というのは、決して「無料でダウンロードして楽しむ。利用する」というばかり
でなく、そうしたければ自分も発信できるということ、しかも、そうしたければ、ダウンロードした
ものを加工改変して再発信することができる、ということを指します。

 もちろん、一般的にいえば、ネット上にあるすぐれた情報やソフトを、しろうとが思いつきで加
工改変すれば、かえって「価値」がさがるかもしれません――価値が「破壊」されたり、「不正
確」な情報になったりするかもしれません。けれど、従来の情報や着想をもとに、それをさらに
「すぐれた」ものに高めてゆけることもあるでしょう。
 また、加工といっても、ほんのちょっと自分の感想をつけくわえるくらいで、ほとんど「原文」の
まま再発信することもあるでしょうが、この場合、「価値」は、とくに増えも減りもせず、単に情報
の流通に役立つということになるかもしれません。

 もし仮にこれがネットのあるべき理想像だとして、従来の社会がそういう世界へと移行してゆ
くとするなら、その過渡期には、次のような大きな変化が生じ、個人ごとなどの意識の変化の
速度の違いから、認識の食い違いや、それによるいさかいが生じるでしょう。

1.ネット上のものをこのような共有物と考えるなら、従来の「個人の著作権」――例えば著作
  物を勝手に改変されない権利(同一性保持権)――や「知的財産権」などは、消滅すること
  になりますが、その点において既得権がある人々からみれば、消滅するのは困ることでしょ
  う。 

2.もし仮にだれもが等しく、情報(著作物)を加工したり生成したりできるとするなら、もはや、
  本質的には著作者には何の特権もないことになります。「原著作者」「二次著作者」「利用 
  (改変)者」……などの区別が意味を失うからです。
  このことは、単なる著作権の崩壊であるのみならず、ミムセントリックという、世界観のコペ
  ルニクス的転回(天動説→地動説のような)をひきおこします。
  ――もはや著作者を支配の中心としてそのまわりを著作物がまわるのではなく、「進化発 
  展してゆくアイディア」が中心で、そのアイディア(例えば「複数のファイルを書庫に圧縮す 
  る」というアイディア)を中心にして、各世代のひとびとが、より良いもの、より多様なものを 
  作ろうと動くからです。 

3.著作者は個別的な人格を持つ必要を失います。「着想」「情報」が中心なのであって、それ
  を媒介・発展させる知性体というのは、中心的存在のまわりを、たまさかうごめく、無数の触
  媒にすぎないからです。
  例えば、ピタゴラスという名前の人が「ピタゴラスの定理」を発見しなくても、どっちにしろ、そ
  のうちだれかがその定理を発見するわけで、そうすると、ピタゴラスという名前には本質的
  な意味はないことになります。 

4.ある人間(ある知性体)の人格や性格について、良いとか悪いとか評価することが無意味で
  あるというより、もっと積極的に、特定の人間に興味を持つべきでないことになります。
  作品だけ、生成物だけに興味を持つべきなのです。――あるメロディーの作者がバッハと 
  呼ばれることに本質的な意味がないように、そのメロディーの演奏者が例えばグレン・グー
  ルドのいう名だとして、「グレン・グールドとは、どういうおいたちのどういう顔の人物か?  
  ハンサムな顔か? 背は高いか?」といったことに興味を持つべきでないのです――グレ 
  ン・グールドをみるのでなく、演奏されている音楽、創造されている芸術に耳をすますべきだ
  からです。 

5.ネットがミムセントリックだとすれば、知性体(人間)は、このようにすべて匿名であるべきで
  すが、在来の価値観では、ときどき「匿名で発言するのは悪いことである」のような、正反対
  の主張がなされます。
  これも「ミムセントリック」が人間の認識に対するコペルニクス的転回になっていることの、 
  ひとつの現れでしょう。 

6.当然の帰結として、プライバシーという観念は意味を失います。
  「他人のプライバシーをみだりにふみにじる」という問題の前提になっている「他人」とか「他
  人に興味を持つ」という観念が意味を失うからです(この部分は、ほとんどの現代人には、
  なんのことだか実感できないでしょう)。 


 以上は、もしネットが自己完結的な独立した世界であったらの話です。現状、実際のインター
ネットは(上記のような理念で動いてる部分も確かにあるけれど)昔ながらの物理世界と非常
に複雑に結びついています。

 ネットが物理層にささえられている、という点は本質的では、ありません。「人間の精神活動
が呼吸や血液の循環にささえられているという」見方が、ふつうは必要ないのと同じことです―
―何層かのレイヤを通じて結局は結びついているのですが、酸素や二酸化炭素やヘモグロビ
ンが思想を媒介するのでないのと同じくらい、光ファイバーやケーブルといった物理層は、ネッ
トの世界の現れと「直接には無関係」です。
 ――古いタイプのネット批判は、「コンピュータに頼りすぎるとネットの物理層が故障したとき
に大変なことになる」というようなもので、これはこれで大切な観点ですが、以下で注目するの
は、この界面(冗長性、フールセーフ、エラーからの自律的回復……)ではなく、「個人としての
人間存在」と、「ネットの“共有”がまねく個人の透明化」とのかねあいの問題です。

 例えば――

1.ネット上ですべてを自由に共有するのが正しいと言っても、現実の今の我々の社会において、だれかのクレジット
  カード番号を勝手に共有する、ということは、うまくないでしょう……。

2.例えば、もし、結婚前の性的関係や、神を信じることや、亡命や、同性愛や、さかなを生で食べることが「個人とし
  て好ましくない」として注目される社会に生きているとしたら、そういう事実のある個人としては、その事実を社会 
  に知られたくないと考えるでしょう。

3.中央集権的な政府というものがある社会において、その政府に知られると何らかの意味でつごうがわるい思想の
  持ち主は、その思想について、隠したいと考えるかもしれません。

 これらのことは、いくつかの観点からみることができます。ひとつは、在来のいわゆる「現実」
世界では、リソース(財産)が有限で、共有でも平等でもないということ――必ずしも、それが悪
いという意味じゃないのですが、事実として、この点がネットの世界の理念と異なるので、ネット
の論理と在来世界の論理が接触する界面(例えばクレジットカードによるオンラインショッピン
グで物理世界のモノの所有権なり支配権が動く局面)では、難しい問題が発生します――。

 「新世界において放っておくと自然に絶滅してしまう古いタイプの論理」を――どうせ遅かれ早
かれ滅ぶとしても――過渡的措置として、しばらくは保護することが必要になるかもしれませ
ん。「著作権」も、まさに、そのような「絶滅寸前の古代の信仰」のように思われます。

 従来の「現実」世界で、人間の個別性が残っている以上、ある個別の人間への興味が存在
し、「プライバシー」も、依然、存続しますが、他方において、情報が容易に高速に共有されるよ
うになればなるほど、さしあたっては、いっそう強力な手段でプライバシーを「保護」する必要を
感じるかもしれません(このことは強力な公開鍵暗号系の必要性と関連づけられます)。

 ここでふたつのことに注意しないといけません。第一に「人間の個別性が依然として残ってい
る」ことを指摘するのは、決して、人間が個性的であってはならないという全体主義じゃなく、そ
の正反対に、他人の個性に対して関心を持つべきでない、という意味で、徹底した反全体主義
をはらんでいます。
 しかも、ここで「反全体主義」というのは、「みんなが同じでなければいけない」という全体主義
への単純なアンティテーゼですらなく、すでに述べたように、媒介にすぎない人間自体への無
頓着――「みんなが同じか、それとも個性豊か?」ということ自体に関心を持たないという二重
の無頓着――です。
 体内のさまざまな酵素は、みな異なる独特の働きをもっているのでしょうし、だからこそ身体
がうまく機能するのでしょうが、身体の側では、べつにひとつひとつの酵素について詳細な関心
を持つ必要などないからです。
 そして、第二点として、そのような「個の透明化」が「好ましい」のかどうか、は、またべつの哲
学的問題でしょう。

 少なくとも、従来の価値観で生きている人々にとって、とりわけ「個人の尊厳の喪失」などという言葉遣いを用いれ
ば、とんでもないことに思われるでしょう。あるいは、思想として理解できても実感できないでしょう。
 でも、これは将来、起こりうべき世界観の変化の話であって、いますぐ“革命”を起こそうなどというわけじゃないの
です。

 さて、個人の「変」な性格への無頓着(とくに積極的に尊重しない)ということが、結局は「みん
な同じでなければいけない」という全体主義になるのではないか、とのうたがいがあるかもしれ
ません。
 つまり「個性的である権利を積極的に保護しない限り、本当に個性的に生きられないので
は?」と思われるかもしれません。――これは一理あるように見えるかもしれませんが、じつは
二重に錯覚です。
 第一に、「約束を取り決めて意図的に保護しあわなければ確保できない権利」というのは、本
質的には保護されておらず、つねにおびやかされているからです。
 例えば「キリスト教徒を差別してはならない」とか「女性に男性と平等の地位を保障しなけれ
ばならない」という法律があるとしたら、そのこと自体が(過渡期においては必要な良いことであ
るとしても)結局は、無意識の問題が解決していないなによりの証拠でしょう。
 わたしたちは「思想、良心、信条の自由は、これを侵してはならない」などという法があること
それ自体を、「古代のくるしみ」だと感じているからです。

 第二に、これは「政府による思想の検閲の問題」などとも関連しますけれど、もし仮にここで
考えているような「ネットの論理」が新しい世界観の基礎となるなら――これは仮定ですが―
―、その世界では、そもそも中央集権的な政府など存在しないことになります。
 「検閲をしては、ならない」とかいう以前に、検閲を行う当局が存在しないわけです(対等な分
散系なので)。要するに「個性的に生きる権利」を保護するも妨害するも、そういう全体的なち
からをもった存在がないわけです。
 例えばネットの世界で平和に電子政府というものができれば(結局は、そういった方向に行く
のでしょうけど)、最後は完全な直接民主制になって、中央集権的な政府は(本質的には)自然
消滅するかもしれません。

 ここでいつも問題になるのは「じゃあネット上の犯罪は、だれが取り締まるのか」という点でしょう。これについては、
いろいろ言えますが、基本的に、ミームの流れだけがある「自己完結したネット世界」では、原理的に、だれも犯罪を
おかせないのでは、ないでしょうか。
 なぜなら「悪い」ことといっても、ミームを破壊するとか、芸術作品を改悪することくらいですが、たとえ「ひとつの無名
細胞」がそのように動いたとしても、ネット全体のホメオスタシスによって「破壊」は自律的に修復されるばかりか、そ
のような「破壊=突然変異」が新たな創造のちからとさえなりうるからです。
 もちろん物理層に対する破壊活動の脅威は残りますが、もしネットの世界観に知性体の意識が移行したとすると、
ネットの物理層を破壊することは、自分自身を含む世界そのものの破壊でしょう――それは、たとえば、今の地球の
大気上層に巨大な真空ポンプを設置して、地球の空気をぜんぶ宇宙空間に吸い出してしまおうというような、非現実
な話かもしれません。
 そもそも、「人類(知性体)全体が、ある反逆者の自殺的蛮行によって全滅する可能性」がわずかにせよ存在するこ
とは必要なのです――いろいろな意味で。分かりやすいところでは「免疫系が退化せず、いざというとき働くため」に
無菌状態は危険でしょうし、「宇宙線による遺伝子の破壊が画期的な突然変異により種全体としての適応力を維持
する」とたとえることもできるでしょう。
 より哲学的にいうなら、もし何があっても絶対に知性は滅びないという保障が得られれば、退屈かもしれません。な
にも人間のなかから狂気の破壊者があらわれなくたって(たとえ、それをどんな強力で横暴な警察力でとりしまったっ
て)地球なんて壊れるときには壊れるに決まってます。

 現在、ネット犯罪といわれているものの大半は、実際には、真にネット上の犯罪ではなく、現実世界上での犯罪
(詐欺など)をネットを通じて行ったり、いわゆる現実世界の古い論理にもとづく「犯罪」(名誉きそんなど)をネットを通
じて行っているにすぎません。

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でない


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