「個性」って「人と違う」ってことなの?


だれだって、自分の趣味や好みを最大限、認めてほしいですよね。それが自分だもん、と。

 そういうふうに「個性」をみとめてもらうことは、とても大切なことなのですが、しかし、いわゆる
「個性的」というイメージが、どうも「自分らしさ」とますますずれてきているのを感じているかたも
多いのでは、ないでしょうか。

 ちょっと難しい話になりますが、「あなたがあなたである意味」にかかわるたいせつな話題で
す。

 たぶん、本来の意味では「個性的」というのは、その個体つまりあなた自身に固有の性質の
ことでしょう。
 あなたに固有の性質のなかには、統計的にみて、わりと多くの個体にみられるものもあれば
わりと珍しいものもあります。非常に共通性の高い部分もあれば、きわめて珍しい特徴的な部
分もあるでしょう。
 一般的に、珍しいほうだけを個性ととらえているむきがあるように思います。

 これは「きわだった個性」だけを「個性」だと思ってしまうことですが、それだけなら、単なる言
葉の問題で、たいして害があるわけでもありません。

 問題は、個性的であるのはいいことだ、個性的であらねばならない、という信仰をもつ社会に
おいて発生します。
 この信仰は、基本的には良い考え方でしょう――もし、「人と違う」(珍しい)部分があるのは
必ずしも間違いじゃなく、むしろ、できるだけそれは、そのままでいい、というような、多様性、寛
容(かんよう)の発想であれば、です。

 でも、「個性的であるのはいいことで個性的であらねばならない」、という執着において、「個
性的」=「人と違う」というとらえかたをすると、「個性的」であろうとして「自分らしさ」を犠牲にす
る結果になってしまいます。
 「個性的」であろうとすることが、自己目的化してしまう場合です。

 なにやら、みなさんのなかには、携帯電話のひもをふつうと違うようにしてそれが「自分らし
さ」だと信じこまされてみたり、どこかに張る小さなシールで「自分らしさ」を「演出」してみたり、
そういうたぐいの変てこな行動もあるようです。
 もちろん、肩からさげるかばんやなにかの「ひも」ないし「シール」をデザインするのが仕事だ
ったり、そういうことが本当に好きな人が、「ひも」や「シール」でうたうのは勝手ですが、そうでな
く、お見受けするところ、どうも「個性的でありましょう。そのためにこの商品を買って他人と違う
ふうにしましょう」という構造の商売に、あなたの純真な気持ちが利用されているようにも思いま
す。そして、つまらないものを買わされているのです。

 まあおかねが余っているのなら、おかねのことは、いいのですけれど、身につけているもの、
所有しているもの、服装、髪型などは個性でありません(個性のあらわれでは、ありえますが)
 たぶん、そういうたぐいのものでは、いくら高価で珍しいものの所有をかさねたところで、つい
ぞ本当には満たされないでしょう。むしろ、身につけているもので(つまりおかねで買えるもの
で)自分らしさをすくいとれると信じこまされているとしたら、逆の方向に向かっているように思
います。
 「知識」だって同じこと。そういうお遊びも、つきあい程度になら悪くないでしょうし、ちょっと変
わったことをやって注目をあびてみるのも悪くないのですが、しかし、そうしたことでは最終的に
自分が満たされないということは、あなたご自身がいちばんよくご存知なのでは、ないでしょう
か。

 これは、けっこう、むずかしい問題なのですよ‥‥。




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