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現実に居場所があると感じないとき、もしかすると「現実に居場所がない」ということ自体もし
っくりしないかもしれないが、なにより、「現実に居る」ふりをしなければならないとしたら、しっく りしないだろう。
「つまらない」ときは「つまらない」だろうが、なにより、「つまらないときに楽しそうなふりをす
る」ことは、単にふつうに「つまらない」以上に苦痛に違いない。それと同じことだ。
けれど、このことが次のように「現実」と「あなた」のあいだで起きるのは、どうだろう――。第
一に、例えば、けがや病気でからだのどこかが痛いとき、痛いなあという「現実」と、つらいなあ という「あなた」の関係においては、しっくりしない点はないかもしれない。第二の場合として、あ なたはつらいのにあなたの現実が平和だと、しっくりしないかもしれない。第三の場合として、 あなたの現実、つまりあなたの物理的存在に病気のような不具合があるのにもかかわらず、 あなた自身につらさがないというのも、しっくりしない状況ではある。
例えば喫煙のようなからだを害する行為が行われつつそれをどうとも思わないとか、けがを
しているのに、なぜかあまり痛みを感じないとか。これらの場合には、理論的には、からだは、 あなたに腹を立てるべきかもしれない(けがをしているのに、なんで痛がらないのだ、ばかやろ う! 早く手当しれ!と)。
逆に考えると、第二の場合において、あなたは、あなたのからだに腹を立てるかもしれない
(こんなにつらいのに、なぜどこもけがをしていないのだ!と)。
「からだが傷ついているときは、こころがへこむべきだ」とか「こころがへこんでいるときは、か
らだが傷つくべきだ」というのは、奇妙な共生関係のロジックだ。
そんなに一蓮托生なのだろうか。もし、主従関係があるなら、共生関係は常に水平にはなら
ない。「あなた」が現実の物理媒体に寄生しているなにものか、であるとするなら、宿主は現実 なのだから、あなたはたぶん現実に従うべきだろうが、そこはそれ、寄生であるから、現実にと って不利益なことをしでかしもするのだ。
他方、もし、現実の身体のようなものがあなたに従属することで生かされているとするなら、
宿主は「あなた」、寄生者は「現実」であって、主客は逆転する。この発想はいっけん不自然な ようだが、「脳死は人の死」「身体の機能が維持されていても意識が死んでいるなら死んでい る」という立場からすれば、むしろ物理的現実が従で「あなた」が主ということになる。
その場合でも、「現実に寄生していたあなたが現実のなかで死んだ」のか、「あなたに寄生し
ていた現実が、あなたの死によって共倒れすることになった」のか、というのは、どちらの見方 もできるし、それらも、しょせん、人間のことばにすぎない。
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