蚊の妖精学


 「蚊に刺されるとかゆい理由」が蚊の唾液のせいであることはよく知られている。 

 しかし、ここで当然の疑問が起きる。なぜ蚊は相手をかゆがらせないように進化しなかった
のか。 

 蚊の唾液には血液の凝固を阻止する物質が含まれている。血を吸っているときに血液が空
気に触れて固まっては困るからだ。
 高度に進化をとげた「血液の凝固因子」(傷ができて出血すると、自動的に止血・自己修復ア
ルゴリズムが起動される)をハックするような物質を作れるなら、アレルギー反応が起きにくく
(つまり相手をかゆがらせず)血を吸えるように、もうひと進化しても良いのでないか、という疑
問だ。
 そうすれば蚊は安心して血を吸えるし、血を吸われるあなたからみても、アレルギー反応が
起きないということは、腫れないし、赤くならないし、かゆくならないのだから、お互い良い話に
も見える。 

 実際、蚊のなかにも、刺されるとひどくかゆい種類と、そうでないのがいるのだ。また、動物
のなかには、相手をかゆがらせないで血を吸うものもある。
 これも種類によるのかもしれないが、ヒルはかゆくないらしい。となると、蚊がかゆいのは、絶
対に必然的なことでもない、と言わなければならない。 

 ここで、さらなる疑問がわき起こる。 

 じつは、すでにハックされているのではないか? かゆくならない蚊は存在するが、かゆくなら
ないゆえに霧箱のなかを透明につきぬけるニュートリノのように、人間に知覚されていないの
ではないか。ステルス蚊だ。 


かゆくない蚊は滅ぶ

 この思考実験によって、かえってステルス蚊は栄えられないことが予想される。
 もし相手に意識されないと、血を吸い放題なので、ごく一時的には大繁殖できるはずだが、そ
うなってはついには相手を全滅させてしまい、血が吸えなくなって、自分も滅んでしまう。
 無限に一方的に大繁殖ということは、物理世界では不可能だ。(人間だって100万匹の蚊に
たかられまくれば失血死するだろう。あるいは100匹くらいでも、のべ100万匹が交替で24時間
血を吸ったら。もしステルス蚊だと、そうなっても人間は刺されていることがなかなか分からな
い。) 

 何万年だか何億年だかの蚊の進化の歴史のなかでは、ステルシーな蚊も突然変異などで生
まれたかもしれないが、長期的には栄えず、淘汰されてしまうと想像できる。「見える」ことによ
って、すなわち相手をかゆがらせ、怒らせ、自分を殺そうとさせることによって、エリートだけが
生き残れるシステムなのだ。
 もし、のろのろしていても、のほほんといつまでも血を吸っていられるような世界だったら、そ
の蚊たちは、別の原因で自然の厳しさに耐えられない。のほほんとしているところを、蚊を捕食
するほかの虫や生き物にひとのみにされてしまうだろう。
 万一そうならなくても、相手がかゆがらなければ、結局、吸血対象がだんだん滅んで減少して
しまうから、自分も滅んでしまう。 

 蚊のせいでかゆくなることは、あなたにとっても、蚊自身にとっても、滅びないで済むための
良い道なのだ。
 ヒルのような避けやすいものと違い、どこからともなく空気経由で侵入できる蚊であればこ
そ、それが「悪い」性質を持っていることは、それ自身のためであり、あなた自身のためでもあ
る。 

 同様の議論によって「蚊取り線香は、あまりきかない」ことが示される。もし蚊取り線香によっ
て蚊をパーフェクトに撃退できるくらいなら、蚊取り線香は存在していない。 


戦闘妖精

 蚊に刺されるとかゆいわけを蚊中心で説明したが、さらに、人間中心の視点を交えることで、
核心をつくことができる。 

 すなわち、人類と蚊類の進化のなかでは、蚊に刺されてもかゆくならない人間も存在したが、
そういう吸血生物などに無頓着な人間は伝染病などにかかる確率が高いので、滅んでしまっ
た。
 また、蚊が進化して、人間にかゆみを与えないようになろうとするたびに、人間も進化して、
蚊の血液凝固因子・拮抗(きっこう)因子を察知できるように反応物質を洗練してきたと。 

 これはECMECCMに似ている。人間の血液には、空気にふれると固まる凝固因子があ
る。しかし蚊はそこをハックしてくる。
 すなわち、血液を実際には体外に吸い出し、空気に触れさせながら、空気に触れているとい
う情報をうまく隠すか、あるいは、空気に触れると凝固するアルゴリズムそれ自体にハッキング
をしかけてくる。情報戦なのだ。
 だが、人間も負けてはいられない。ハッキングを完全に防ぐことはできないが、ハッキングさ
れたことを事後的に検出するアルゴリズムを持っている。彼女がこちらのレーダーをあざむく
欺瞞(ぎまん)電波(血液凝固因子・拮抗因子)をしかけてきても、その欺瞞電波に反応する高
水準アレルギー・アラームがある。
 血の流出それ自体を止められなくとも、フェールセーフ回路が働き、「何か不快なことが起き
ているぞ」と脳に警告を与え、「血液を何者かがハッキングしている。不快の原因を目視し、撃
墜せよ」と運動神経にうながす。
 すなわち、人間には「血液凝固因子・拮抗因子・拮抗因子」がある(血液を固まらせる回路を
妨害しようとする異物を検出して、それをさらにまた妨害しようとする回路)。まさにECM(対電
子妨害手段)に対するECCM(対・対電子妨害手段)だ。
 そしてそれは進化する。幼児が最初に蚊に刺されたときは無反応でも、次回からは鋭敏に反
応するようになる……。 

 蚊がこのアレルギー回路を回避すべくECCCM(ハッキングを事後的に検出する回路へのさ
らなるハッキング)を使おうとすれば、人間はECCCCM(それをさらに見抜くアルゴリズム)を
使い……というふうに、進化の時間における人間と蚊の情報かく乱戦は、続くのだ。
 情報戦に負けた蚊のグループ・負けた人間のグループは滅びる。結果として、エリートの人
間とエリートの蚊だけが残っている――互いに高度のハッキング能力をそなえた。 

 蚊に刺されてかゆくなるということは、人間のほうが一枚上手で 「ばれないように侵入して血
液を盗もうとはさせない!」という情報戦における勝利なのだ。 

 人間は、高度な情報戦だけに頼らず、化学的・生物学的対応(血液の凝固やアレルギー反
応)ではなく、手で蚊をたたきつぶすという物理的レイヤーを使うことによって、最終的な勝利を
おさめようとする。
 だが、蚊の物理レイヤーもあなどれない。人間の脳がそれぞれ空間で速度ベクトル・加速度
ベクトルを持っている手・足・蚊などに関する多体問題を――いわば非線形二階微分方程式
のマトリックスを毎秒1万回のペースで――超超高速で数値積分しながらリアルタイムで運動を
補正しながらくりだす恐るべきてのひらを、彼女もこの問題専用に最適化された静粛性・低視
認性・敏捷性・高機動性のボディ、文字通り命がけで進化させてきた危険回避アルゴリズムに
より、巧みにかわそうとする。

 蚊の動きは画一ではあり得ない。常にある確率で、人間にとって予測がつかない回避行動を
とる。
 しかし、蚊の回避は完全ではあり得ない。常にある確率で、人間によって撃墜される。この緊
張感ある絶妙なバランスによって、両方が存続する。 


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