![]() きる作品の方が幸せか
「「無断コピー以外」を禁止するライセンス」でも詳しく説明されているが、従来型(マスメディ
ア)の情報産業では、情報が売れれば売れるほど(利用されればされるほど)情報発信側が経 済的に儲かるようになっていた。
インターネットの時代の、ミクロ(個人や小グループ)を単位とする情報のトポロジーでは、 情
報が利用されればされるほど発信者が損をするという逆の状況が生じやすい。有用な情報を 発信しようとすればするほどブレーキがかかり、無用のくず情報を発信することがシステム的 に推奨されるのでは、究極的には、全体のクオリティの低下につながり、好ましくない。
ミクロを基盤とする情報ネットワークが本質的に矛盾しているというわけではなく、ウェブを脱
中心的(分散的)にするP2P技術や、「「コピーさせないこと」に課金するのが合理的な理由: 「コ ピーに課金」でなく」で説明されているような逆向きのコスト負担の考え方によって、発展的に解 決されるべき問題だろう。
コストの負担が難しくなった場合には、作成側の保守性、利用側の利便性を犠牲にしてで
も、ページをよりスタティックにしたり、初心者向けの記事をあえて減らすことも必要になるかも しれない。
また、マニアックな技術について紹介するからには、その基礎となる入門的な部分は書けば
書けるわけだ。しかし、そうしたことは、モチベーションもさることながら、純粋にサーバのリソー スによっても制限されてしまう。
そういう事であまり人気が出すぎては困るわけで、帯域オーバーに対する多額の追加料金を
請求される状況は避けなければならない。さらに、多くの人にそこそこ役立つような広く薄い情 報を無難に提供するというのは従来型のマスメディアの役割で、インターネットは、少数の読者 圏を前提とする多数のディープでマニアックなサイトの結合であるべきだ、という思想的立場も 働いている。
いたずらな難解や晦渋、独りよがりを肯定するものではないが、あまりに一般向けを意識し
て誰でも分かるように親切ていねいに書くより、ある程度「これが役立つ人が役立ててくれれば いい」という割り切りで、狭い範囲にディープに切り込んだ方が、ウェブ全体として良い結果にな るはずだ。
具体的に、例えば「日本語の字幕を縦書きにする方法」を詳述したところで、その情報が役
立つという読者はごく少数だろうが、だからといって、もっと一般的な「DivXのインストール方 法」を1ステップずつ画像入りで解説したサイトばかりになったら、ネットの意味がないではない か。
一般論としておもしろいコンテンツ、役立つコンテンツを作成できる能力がある人、才能があ
る人がその情報についてのコストを負担して、情報を利用する側のリーチャーはコストを負担し ない、というのは不自然だ。
ところで、この場合のコストというのは、何もリーチャーが発信者に金を払うべきだという意味
ではなく、単にサーバ負荷(CPU)と帯域のコストのことなので、要は分散系に移行できればい い。
利用者自身が利用するリソースについていくらかのCPUリソースを負担し、BTのように「サー
バント」となれば、お金の移動は必要ない。「帯域が必要なんですね。わたしの帯域を分けてあ げますよ」という現物払い、みたいなものだ。
このようなトポロジーが成り立つためには、 キャッシュ(古い言葉で言えば無断コピー)は場
合によってはフリーの情報発信者に利益を与える面もある、という点が、もっときちんと認識さ れるべきだろう。
商業ベースで情報を販売するならもちろん話は別だが、個人サイト等で、フリーで普通に発
信したいのに、プロプライエタリのマスメディアの感覚と混同して「自分の文章が無断で利用さ れるのは、わたしにとって損害だ」と錯覚してしまうと、いつまでたっても、非生産的なリーチャ ーのために生産的な発信者がコストを負担する構造から抜けられない。
ただしこれは心理的な面やスケールの要素もある問題で、 「情報の作者として尊敬された
い」というモチベーションが「情報自体」を生かしたい気持ちを上回ると機能しない。
図式的には「わたしが死んだらこの情報は利用できなくなります」という作者と作品の無理心
中関係だ。なぜならその作者にとって作品は第一義的に自分の功名心を満たすためのものだ から、そのこと自体は少しも悪くないが、結果としては、本人が死んでしまえば、その作者にと っての作品の第一義的な存在意義もなくなるわけだ。
スケールについては、トラフィックが1日100MB程度までなら、キャッシュしてもらうメリットは必
ずしも明確でないから、無断転載されると更新の同期などの点で不都合がある、といった問題 の方が大きいかもしれない。
よって、上記に述べたことがすべてのサイトに当てはまるわけではない。
しかし1日のトラフィックが1GB〜数GBのスケールは一つの臨界点と考えられ、 10GB/日の
オーダーとなると、資産家などでない一般の者が広告なども入れずに完全にフリーで運営する ことはやや困難になるだろう。
ポイントは、この困難性は本質的に不可避な構造ではなく、単に分散ウェブが実現すれば技
術によって解消できる、ということだ。ウェブ全体で見れば帯域は余っているし、世界中のCPU をトータルすればこれまたアイドル時間ばかりだから、それを利用することは資源の有効活用 だろう。
既に指摘したように、そのような新しい方式に移行しないと、長期的にはウェブ上にはくず情
報が増え、従来、外国から専門書を取り寄せても分からなかったような貴重な情報がフリーで 利用できる、というインターネットの本来のメリットが薄れてしまう危険がある。
高品質の(被参照量の多い)情報を発信すればするほど損をするなら、それら発信者のかな
りの部分は発信をやめてしまい、究極的には被参照量がゼロに近い(つまり何の役にも立た ない)情報ばかりになってしまう。実際には、情報がフリー(無料という意味ではなく、フリーダム という意味でのフリー)であることに価値を見いだす発信者は、自腹を切ってでも情報をフリー に保とうとする。
実際、そういう者は自分のサーバ費用を払うのはもちろん、無料のリソース(GPLソフトやフ
ォーラム)に対してかなり頻繁に寄付をしたりもするだろう。極論すれば「シェアウェアはただで 使うが、フリーウェアには金を払う」ということ、つまり「奴隷虐待には一切協力しませんが、創 造の自由と作品の幸福のためには微力ながら貢献したい」ということであり、そこには「早くお 金のない平和な世界になりますように」という哲学あるいは理想主義がある。
「売られるために育てられ管理される作品より、自由に生きる作品の方が幸せだ」と。
それはそれで尊い行為・尊い哲学ではあろうけれど、もう少し現実的なレベルで考えて、イン
ターネットの空きリソースを有効活用すれば、フリー(自由)をフリー(無料)で実現する、という 理想的な状態にかなり近づける可能性がある。
メリットとデメリットの例(未完)
実際の作品は、きっちり二分できる(どっちかの一方と断定できる)わけではないが、ちょっと
考えてみるための抽象的モデル。他にも何かあるかな…?
売られるための作品
・保護者がいて、自力で拡散できなくても金の力である程度広まる。
・消費者が望まないものは原理的に存在できない。
・保護者(権利者)だけでなくメジャー系消費者の好みに依存する生態。消費者がキャラの裸を
見たければ、作者は望まなくてもそうなったりする。
・内容的に優れていても、十分な収入をもたらさないと保護者に遺棄される。
・利用者は「金を取る売り物なのだから、そう極端に悪いことはないだろう」「みんなが見ている
(良いと判断している)のだから良いのだろう」と錯覚しやすく、金を払ったことそれ自体が心 理的付加価値になる。→メジャー感による安心感
・全般に「とりあえず養ってやるから働いて金を入れろ」という構造。
自由に生きる作品
・特殊な構造を入れない限り、資金による宣伝力でなく、作品自身(とファン)の力で広まる。マ
イナー系、口コミ系など。
・基本的に作品と利用者の単純構造でオーバーヘッドの無駄がなく、トータルでは安上がりだ
し、作者の自由度も高いが、その分、物理的・経済的保護はあまりない。高効率で低コストの 流通・情報交換(宣伝)システムと結合して初めて成立。
・ネットの場合、自由にといいつつ拡散がグーグルに依存→分散型自律的検索エンジンへの
移項が望ましいが、技術的に実現できてない。
・無名の作品でも良いと急速に拡散する。
・メジャー系では仕掛けられないようなブームが、自律的・偶発的に実現することがある(吉野
家コピペなど)。必ずしも本質的に極端に優れているわけでないものが高いニッチを得る。管 理された世界よりミームの生存競争で偶然の要素が大きい。多様で興味深い生態。
・利用者は「これはユーザ自身で作り上げた世界だ」という点に価値を見いだし、本質的な価
値と無関係に「大資本の介入でなく自分たちで作っているところがおもしろいのだ」という要素 がある。観客参加型の形態。
・利用者の中には「あまり知られていないところが良い」と感じる者もあるが、ただし「誰が何と
言おうとわたしはこの作品が好きだ」という自律的な判断力が必要。→マイナー感自体がマ ニアをくすぐる。オタク的構造。
・全般に玉石混淆で、多様だが品質にばらつき。「利用は自由だが内容の判断等は利用者が
責任を負え」
あくまでポイントを整理するための便宜的な分類で、価値判断ではないことに注意。
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